うちの風景


夜10時。うちのリビングにある音は、妹がシャワーを浴びている音、水槽のあのブクブクのモーターがブーンてなる音、それから、テレビ…ではなくて、葉加瀬太郎のヴァイオリン。

わたしは小学5年生の冬、仲間由紀恵を贔屓にしている父が土曜日の9時だしいいかとごくせん第2シリーズにチャンネルを合わせるまで民放の連続ドラマを連続で見たことがなかった。

21時になったらテレビの時間は終わり。朝はNHK以外のチャンネルであんなに賑やかな番組が放送されているなんて知らなかった。いや、21時になったらテレビはおしまいと言ったけど、あれ、なんか違う気がしてきた。21時には就寝だったから、平日は特に20時にはテレビが消えていた。

若い日の、キラキラが迸ってるキムタクのプライドとか、救命病棟24時とか、お母さんが見ていたドラマはふすまの隙間から覗き見していた。

なんてこと…!もう今じゃ考えらんないなぁ(笑)

あの頃は自分でリモコンを持てるのが天才テレビくんまでで、でもそれが普通だったから特に何も不満はなくて、けどやっぱりもうちょっと見たくて。

学年が上がる毎に周りのテレビ視聴時間は遅くなるわけで、そうなってくると、なんでうちはこんなに早くテレビ消すのってもやもやしてた。たかがテレビだけど、されどテレビだった。そんな小さな社会にいたんだなぁ。

そうそう、何が言いたくてここを開いたのか忘れてしまいそう(笑)何が言いたかったって、わたし、なんかこの、夜だけどまだまだ活動時間なこの時間に何よりもスピーカーから流れるCDの音が一番存在感を持ってるこのうちの風景がすき。かも。

曲と曲の間、シンとするそのときにクーラーの音が聞こえたり、シャーペンのシャリシャリする音が聞こえる、田舎とは言えない住宅街のマンションにあるこの空間がけっこうすき。

今はすっかりテレビとかレコーダーとかを操るのはわたしがその殆どを(多少嫌がられながら)やっているけど。好きなだけテレビを見れるけれど。

こういう時間がたまにあるといい。テレビって無意識にいろんな機能を使ってなんか疲れるしね、なんだか。

時間を区切って、視点を自由なところにおいて、思い思いの場所でそれぞれの作業をするリビングがわたしの原風景としてずっと残っていくのだとしたら、なんかそれっていいなって思って。


あ、ドリカムに変わった

友情:心で育てること


植物は 芽を吹き、根を張り、花を咲かせる。花を咲かせるまでにはいくつかの困難を伴うし、深く太い根を張るほど強い。友情も、植物のようなものではないだろうか。

母が公園デビューという形で、わたしの中に友情という概念の種が蒔いてくれたのは、もう何年前のことだろう。それから約20年、年齢とともに少しずつ形を変えながら成長してきた。

幼いころの芽吹いたばかりの友情は物理的に同じだったり、思考的に近いということで育まれたように思う。中・高生になるとその危うさに気付き、時にその脆さに愕然とし、もっと内から強く頑丈なものであってほしいと願った。映画や小説にみる壮大な友情物語に影響を受けてドラマティックな展開に憧れたし、夢見がちなこともたくさんした。段階ごとに様々な色・形をした思い出の花をつけてきましたが、最近本当に小さなことで根っこの部分が太く逞しくなった感覚を覚えた。

それは学内で久々に会った友だちと生協の前で立ち話をしただけの、24時間のうちのほんの5分間の出来事であったが、別れの未練もなく「じゃあね」とすぐに解散する爽快さに追ってくる優しい温かさがとても心地よくて、新鮮だったのだ。わたしたちはお互いのことを思って繋がっているという心強さは、確実に根を肥やす。

物理的距離が遠くても、となりに感じることができる。顔を浮かべることができる。心が温かくなる。そんな友だちの存在ほど強く頼りになるものはない。友情がその人たちのことを想う気持ちだとしたら、こんなに素敵なことがあるだろうか。何も分からぬまま蒔かれた種が自分の中にしっかりと根を張ってくれていることが嬉しい。芽生えたその気持ちを大切に、花が枯れないように、また新たな花をつけ続けられるように育み続けたい。

 


第3回韓国語作文大会 発表分(日本語のみ掲載)
奨励賞